Column

集団対戦スポーツの観戦と人間の本性

私はスポーツの中で、集団で対戦する類の競技が嫌いだ。自分で競技するは勿論のこと、観戦するのも、他人が観戦しているのを見ることすら嫌なのだ。この嫌悪感は一体どこから来るのだろうか。

Kashima  Soccer Stadium
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例えば、サッカーを観戦する場合、好きなチームを応援するのだろうが、そのチームを応援する理由は一体何なのか。地元のチームだから・自国のチームだから・カッコいい選手が所属しているから?

なぜ地元だから応援するのか。なぜお気に入りの選手が所属しているというだけで、そのチームを応援するのか?

実際のところ、あるチームを応援する合理的理由などというものは存在しないのかも知れない。では、なぜあるチームに肩入れするか。

人類は、元々集団闘争を好む種族であり、今まで数々の殺戮を繰り返してきた。初めは自分の物を守るため、他人の物を略奪するための、個人同士の純粋な争いだった筈だ。時代が進むにつれて、民族が形成され、集団での戦闘が行われるようになると、個人の損得以外の何かが戦闘の原因となるようになった。それは、宗教や民族や集団の損得という形で表現されることがあるが、その根底には人間の本性を垣間見ることが出来る。自らをある集団に帰属させ、他の集団に対して理由の無い憎悪感を持つ。こうなると、戦闘にはもはや純粋な理由などは存在しない。近代から現代にかけて、戦闘は益々酷くなり、戦争という人間の醜い本性を剥き出しにした争いを繰り返し、世界大戦にまで発展することとなった。

現代も最近になってようやく、戦争は残酷悲惨で馬鹿げている。平和が大切だと認識されるようになり、人類は自らの手による滅亡を免れた。この歴史から、人類は元々集団での戦闘を好む種族であり、何かと不条理な理由を付けては、集団と敵対し、打ち負かしたいという醜い本能があるということを学び取った筈だ。

私には、集団対戦競技が、この人類の醜い本性を映し出しているように思えてならない。合理的な理由無しに、どちらかの集団に味方し、敵対する相手集団の敗北を願い、味方の勝利に酔いしれる。

日頃抑えている醜い本性を、害の無いスポーツ観戦で発散するのだと捕らえることは出来るが、サッカー・バスケットボール・フットボールなどを観戦している人々を見ると、私はゾッとする。